本日の北九州地区は雲ひとつない晴天となり日中は大変気温が上がりました。その炎天下の中、仕事までの時間を利用して小倉城を見てきました。 ここには何回か来ているんですが、ゆっくりと見る時間がなかったような気がします。 今回は一人で来たということもあり時間をかけて見学することができました。
この小倉城は慶長7年(1602年)細川忠興(ただおき)が築城した城です。天守閣の外見は五層六階で、五層目が下の四層目よりも大きく、当時は「唐作り(南蛮風)」と呼ばれて全国唯一の珍しいものだったようです。 しかし、慶応2年(1866年)に第二次長州征伐で小笠原藩(小倉)と長州藩との戦闘の際に小笠原藩(小倉)は長州藩の攻勢の前に小倉城からの撤退を決め、自らの手で火を放ち建物ごと焼き払ってしまいました。 l現在の城は昭和34年に在りし日の城を再現したものです。 lまた、この城の石垣は切石(切り出して加工する)を使わず、城の東にある足立山というところからとってきた自然石が大部分で、堂々とした風格を見せております。 これは当時の城主、細川忠興の自慢(これだけの天然石を使えるだけの力がある)の一つだったといわれています。
この小倉城は慶長7年(1602年)細川忠興(ただおき)が築城した城です。天守閣の外見は五層六階で、五層目が下の四層目よりも大きく、当時は「唐作り(南蛮風)」と呼ばれて全国唯一の珍しいものだったようです。 しかし、慶応2年(1866年)に第二次長州征伐で小笠原藩(小倉)と長州藩との戦闘の際に小笠原藩(小倉)は長州藩の攻勢の前に小倉城からの撤退を決め、自らの手で火を放ち建物ごと焼き払ってしまいました。 l現在の城は昭和34年に在りし日の城を再現したものです。 lまた、この城の石垣は切石(切り出して加工する)を使わず、城の東にある足立山というところからとってきた自然石が大部分で、堂々とした風格を見せております。 これは当時の城主、細川忠興の自慢(これだけの天然石を使えるだけの力がある)の一つだったといわれています。
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