本日は昨日紹介した広島の平和記念資料館のある平和記念公園を散策してきました。平和公園は広島市内にあってかなり広い公園となっています。その中心に慰霊碑があってここで毎年8月6日に平和記念式典が行われています。今回はその公園内にある『原爆の子の像』にいってきました。
この原爆の子の像のモデルとなったのは佐々木貞子さんという被爆者です。 1945年(昭和20年)8月6日、爆心地から1.7キロの自宅で原爆投下後に降り注いだ『黒い雨』によって2歳で被爆。 lその後の検査では特に異常は見当たらなかったものの1954年の11月に首の周りにしこりができ、精密検査の結果、白血病で余命1年と宣告されました。延命を祈りながら折られたのが紙の鶴でした。
この千羽鶴は僕が小学生の時(広島に住んでいた)には道徳の時間などに学級単位で折って千羽作り終えるとこれを平和記念公園の原爆の子の像の前に持っていった記憶がいまでもあります。 l平和ということに対する関心はまさにこの広島という土地で教えられました。学芸会なども広島の原爆の悲惨さを題材にした物が多かった気がしますし、そういうことから自然と小さい頃から戦争と平和とは何かを勉強したような気がします。
ここは平和式典が毎年行われる原爆死没者慰霊碑です。 ここからは一直線に平和の灯火(全世界から核兵器がなくなったら消える)や原爆ドームが見れます。いまや世界遺産にも登録された原爆ドームでしたが、以前は取り壊し(倒壊危険物件であったことや被爆した建物を見ることが嫌なイメージを持つ人もいたため)の話もありましたが、平和を求めるためのシンボルとして残されることになったそうです。 lこの慰霊碑には『安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから』と刻まれています。僕はこの慰霊碑に手をあわせ深く一礼してきました。
広島の市内にはこのほかにも原爆で被害を受けた木や朝鮮や中国の方の慰霊碑などたくさんあります。 町を歩いていると街角に突然見つけたりします。戦後61年経ち町が経済発展によって大分変わりましたが大きな被害を出した紛れもない証拠が常に街角見ることができます。 この平和は何としても守っていかなければならないものであると感じました。
この原爆の子の像のモデルとなったのは佐々木貞子さんという被爆者です。 1945年(昭和20年)8月6日、爆心地から1.7キロの自宅で原爆投下後に降り注いだ『黒い雨』によって2歳で被爆。 lその後の検査では特に異常は見当たらなかったものの1954年の11月に首の周りにしこりができ、精密検査の結果、白血病で余命1年と宣告されました。延命を祈りながら折られたのが紙の鶴でした。
この千羽鶴は僕が小学生の時(広島に住んでいた)には道徳の時間などに学級単位で折って千羽作り終えるとこれを平和記念公園の原爆の子の像の前に持っていった記憶がいまでもあります。 l平和ということに対する関心はまさにこの広島という土地で教えられました。学芸会なども広島の原爆の悲惨さを題材にした物が多かった気がしますし、そういうことから自然と小さい頃から戦争と平和とは何かを勉強したような気がします。
ここは平和式典が毎年行われる原爆死没者慰霊碑です。 ここからは一直線に平和の灯火(全世界から核兵器がなくなったら消える)や原爆ドームが見れます。いまや世界遺産にも登録された原爆ドームでしたが、以前は取り壊し(倒壊危険物件であったことや被爆した建物を見ることが嫌なイメージを持つ人もいたため)の話もありましたが、平和を求めるためのシンボルとして残されることになったそうです。 lこの慰霊碑には『安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから』と刻まれています。僕はこの慰霊碑に手をあわせ深く一礼してきました。
広島の市内にはこのほかにも原爆で被害を受けた木や朝鮮や中国の方の慰霊碑などたくさんあります。 町を歩いていると街角に突然見つけたりします。戦後61年経ち町が経済発展によって大分変わりましたが大きな被害を出した紛れもない証拠が常に街角見ることができます。 この平和は何としても守っていかなければならないものであると感じました。
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